「語り得ること」と「語り得ぬこと」への態度が、科学とオカルトを分別する境になるなら、
オカルトは「語り得ぬこと」を断定でショートカットし、
全体風景の見えないはずの枠組みを得てから構図を語り始める。
科学は「語り得ること」の範囲から、全体風景の構図を覗きこもうとするもの。
視野の外側でなにが起きているかわからないを受け入れる。
量子力学の一派が、月を見ていないとき、
月を認知していない観察者は、その瞬間の月存在の有無を語れないを
態度として受け入れる。
これをもう少し厳密にしてみましょう。
月が見えたからと言って、現時刻に月が存在しているかは、わからない。
オリオン座のベテルギウスが、今夜、地球から観察(観測)されても、
同時刻に、ベテルギウスが存在しているかどうかわからない。
すでに超新星爆発した後かもしれない。
観察者の視線方向に隷属しない月存在そのものと、
観察者の視線方向正面に見える、月輪郭イメージを分離。
「語り得ること」だけを語る態度。
いないないばー、peek a boo をすると、
幼児は母親の存在が視界から消えたと、
存在有無を区別しないのか、
それとも別の理由でか、で、泣き出します。
私は幼児ではないので、すでに幼児の気分はわからない。
「語り得ぬこと」として、扱う。
何度か母親が顔を見せるを繰り返すと、慣れてなのか、
泣き出すのをやめる。
もう少し成長すると、
視界から見えなくなったものでも、
糸巻きを投げることで、糸を手繰り寄せれば、
ソファの裏側に廻り込んだ糸巻きが再び見えるようになる。
フロイトの子供の観察。
私は、この子供と同じなので、見えなくなったからといって、
対象の存在が消えるわけないという常識世界の住人。
しかし物理学なら、対象の存在は、見える見えないだけではなく、
見えたもの、発生した現象の位置と時刻。(光源位置に相当)
これを事象発生時刻と呼称し、現象存在とする。
見えたという体験を、事象摂取時刻と定義しましょう。
現象そのものの存在と、そのイメージを情報として受け取った時間差。
情報遅延をアインシュタインの思考実験に組み込み、
一定時間、等速直線運動する列車を観察するに十分な線路長さの用意。
最低でも、1秒前から1秒後の列車側面を観察したいので、
列車速度x2と列車全長を包摂するだけの線路長さを用意する。
列車全長が0で、列車速度が光速Cなら、「2C長さ」の線路。
列車全長が2C長さで、列車速度がVなら、「2C+2V長さ」の線路。
ローレンツ変換のローレンツが、線路上を走っている列車は縮むとか、
縮んで見えるとか言ってますが、取り敢えず、そのことは無視して、
必要な観察範囲を、列車が進行方向に縮まない状態でも
観察に支障がでない、十分な長さの線路を用意。
己の予想に縛られないなら、列車が進行方向に伸びるかも、の、
予測外をも実験観察に組み込みたいのですが、ま、予算を考えて省略。
アインシュタインの同時性破綻有無を検証する思考実験でも、
線路自体は動いていないので、線路に注目。
線路自体が動いていると仮定して実験解釈した
マイケルソン&モーリーが見過ごした、別レベルのトリックは、
いまは論じません。
眼を瞑ってください。
数学者なら眼を閉じても、数直線上を走る列車がイメージできる。
しかし、実験物理学者なら3次元空間内の1点にカメラアイを置いて、
特殊相対性理論(仮説)で同時性破綻が本当にあるのか、
確認すべきだ。
もちろん実際に実験する必要は、ありません。
ちゃんと思考実験すればいい。
観察者であり観測者でもある、時計内蔵カメラアイを使って。
3次元空間の1点から線分線路を観察する。
有限区間の線路の左端を博多駅と呼称し
中央を京都駅と呼称、
右端を東京駅と呼称。
直線上の区間である線分線路。
実験範囲となる有限線分。
線分線路を三角形の底辺とし、
残る三角形の角にカメラアイを設置。
線分線路を観察し映像として撮影。
線分線路の枕木すべてに埋め込んだ時計群の時刻表示を撮影する。
¥
あああああああああああああああああああああああああああああ
以下、捨て文
観察者を、月の輪郭を見るものと定義します。
三日月だったり、満月だったり、形イメージを区別するものが、観察者。
フレーム内に形が入っていないと、
月表面にある小さなクレーター範囲だけを地球から観察しても、
現時刻の地球上の1地点から
観測者問題の観測者を、ある時刻の観察者の視線方向を記録する
タイムキーパー記録係とします。
観察者と観測者の身体(実験器具)を同一のものとし、
特殊相対性理論のトリック発生源である相対性を排除して、
相対性を論ずる前の、月の輪郭が見えるとはどういうことか。
に、注目します。
ローレンツ変換のローレンツや、アインシュタイン等が見過ごした、
見過ごされた前提条件。
それでは、質問です。